2015年10月23日金曜日

コトバ

人間生きてたらいろんな主張を持つ。
それはすごく当たり前で、健全なことです。
むしろそれを持ってない人間は、とても不安定で脆い。
生きていくうえではたくさんのことを考えなければいけなくて、
そのなかで自分の意見を持つ…それが”自分”になっていくんだよね。

ただ、自分の意見を持てば
それで他の人間とぶつかり合うことがあると思う。
自分の常識は、他人の常識じゃない。
自分の正義は、他人の正義じゃない。
自分の言葉と他人の言葉は違う。

その時にどうするか?っていうのが、
最近とみに問われているな、と感じるのですが。

よく見かけるのが、
強い言葉で他人を批判すること。
それがある特定の人物に対しても、特定の行為に対してでもそう。

でもわたし思うんだよ。
何かを批判するときに、強い言葉は絶対に使っちゃいけない。

たとえば、誰かがある行為を咎めたとして
彼女はその行為をすごく嫌だと思っていて、
はじめの10行くらいはそれがどうして批判されるべきかを説いていたとする。
でも彼女は最後に、それって○○なんだよ?嫌じゃない?、と言う。
その○○がすごくショッキングな言葉だった場合、読んだ人にはもうその言葉しか残らない。
はじめの10行がどんなによくても、意味があっても、
もう○○しか残らない。
そして、「ああ、この人は○○って言うような人なんだな…」と、
その人に対する嫌悪感で終わってしまう。

それが分からない人が多すぎる。

それに共感するのは、
既にそれに理解がある人だけだよ。
知らない人は強い言葉が出てきただけで
「回避すべきもの」として受け取ってしまう。

デモとかもそう。
キャッチーにするためにしても、攻撃的な言葉を出せば出すほど
どれだけ大衆のことを考えていても、
どれだけ未来のことを考えていたとしても、
それは「近寄りたくないもの」にしかならないんだよ。

どう言葉を尽したら平和に解決できるのか、それはわたしにも分からない。
正解がないから。

最近、すごく強い言葉で集団で寄ってたかって他人をねじ伏せるのをよく見るので
とても不安になる。
例えば打ち切りになった東村アキコさんの「ヒモザイル」もそうだし、
無料漫画アプリcomicoとかで打ち切りになった作品もそうだけど、
読者やサービスを受ける側の人間、もしくは触れてすらいない情報を掻い摘んだだけの通りすがりが、作者の見えるところで一斉にワーッと騒ぐ現状。
もはや今の日本は正常なものづくりが行える場所じゃないと思う。

強い言葉は、決して人を「変えない」。
「ねじ伏せる」だけ。
「ねじ伏せて」「恐怖を抱かせて」「やる気を失う」それだけ。
そこに未来はあるでしょうか?

人を「変えたい」と思うなら、絶対に強い言葉を使わないで。
怒ってるなら、怒ってるからこそ冷静でいるべき。
自分ならどういう言葉が響くのか、少し相手の立場になって考えてみてください。




よん

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